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「菊ーッ!!!!!」
外から聞こえてきた何とも言えない情けない声に菊は思わず包丁を研ぐ手を止めた。
この家には菊とアーサーしかいないのだからこれはアーサーの声だ。
「どうなさったんです?…おや」
「きっ、菊、ちょ、」
「落ち着きましょうねアーサーさん」
珍しく動揺を全面に押し出しているアーサーに驚きながらも、まぁこれは仕方がないかなと菊は思う。
目の前に立つ大柄な彼を始めて目にしたら誰でも萎縮する。
「……久方振りであるな、鬼子」
「お久し振りです、大天狗殿」
真っ赤な膚に長い鼻。
背を覆う白い、ぼさぼさの髪。
山伏のような服装(まぁ真似したのは山伏の方なのですが)。
見事なまでの6対の羽根。
「あなたがこちらまでくることは滅多にありませんね。何かあったんですか?」
「近頃ここの空気が随分乱れているようでな」
「乱れておりますか」
ぎょろりとむいた黄金の眼にびくりとアーサーが震える。
威嚇するようにぎっと目に力を入れるがまるで気にされなかった。
「名を名乗れ、外つ国の怪異よ」
「…ナイトウォーカー…ヴァンパイアの、アーサーだ」
「ふん」
見定めるように見られるのは居心地が悪いことを菊はよく知っている。
それでもアーサーはこの天狗に認められなければいけないので止められない。
じっとりと背中に汗がにじむのは緊張からか、もしかしたらアーサーがしがみついているからかもしれない。
…後者ならば情けない限りだが。
「ふむ。さして悪いものではあるまい」
「ようございました」
「…菊?」
天狗の言葉にあからさまにほっとした様子を見せた菊に訝しげにアーサーが尋ねる。
「よかったです…悪い方ではないと一応分かっておりましたが、やはり大天狗殿の御墨付きがあるとないとでは違いますからね」
「あー…あのさ菊、こいつ、なんなんだ?」
つまらなさそうに聞いたアーサーが天狗に睨まれて硬直する。
「痴れ者が。そなたごとき怪異殺しを連れてくるまでもなくひと捻りにできるわい」
「駄目ですよアーサーさん、この方はいちばん偉い天狗殿なんですから」
菊にまでたしなめられてアーサーが黙り込む。
うぐ。
ぎらぎらとねめつけてくる天狗の目は空恐ろしく、蛇に睨まれた蛙状態だ。
まったく情けないものだとアーサーは思う。
血塗れの霧と呼ばれた自分が――まぁいつの間にかだったし正直気に入っている訳でもなかったけれど――こんな風に身を竦ませるなんて!
「まぁよい。儂は鞍馬の大天狗、有り難くも天狗の長を勤めさせていただいておる」
「あー…なんて呼べばいいんだ?」
「そのままで構わぬ。者ものは大天狗と呼ぶ」
「大天狗…わ、わかった」
「ふふ。休んでいかれますか、大天狗殿」
「否やは唱えたくはないが…言わねばならぬ、鬼子。まだまだ行かねばならぬところがあるのでな」
「わかりました。…お気をつけて」
「うむ。ではな鬼子、そして外つ国の怪異」
「…アーサーだって」
ぼそりとアーサーがつぶやいたがそれは羽音にかき消された。
「すげー…飛んだ…」
「そりゃあ天狗ですからね」
「そんなもんなのか…それにしても、」
「はい?」
「怖かったなー…」
「おやおや」
「久しぶりに身が竦んだ」
「適度な緊張は必要ですよ」
にっこり、菊が笑む。
それに少しだけどきっとしてアーサーは動揺した。
うわーどうしようときめいちゃった。
「アーサーさん、なんだか顔が赤いですけど」
「なっななななんでもない!」
「でも」
「なんでもないからっ!」
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